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行く先不明のパソコンblog

名演から名曲へ

まぁ、端的に言って、20年前は音楽は「音」であってそこに物語性(みたいなもの)を与えるのは音楽評論の役目だった。インスト音楽には歌詞がないし、洋楽は歌詞が理解出来ないし背景もわからない。

が、洋高邦低と言われた日本の音楽マーケットをひっくり返すべく生まれた奇策「貸与権」の創出によって、洋楽は市場から消滅、同時に音楽評論も衰退した。音源が聞けないのに評論だけあっても仕方がないからだ。

失われた物語性を補完するものは、その結果邦楽の「歌詞」となった。邦楽の歌詞はかつては意味のない他愛のないものか、4畳半フォークに代表されるようなリアリティのない「想像上の東京生活」みたいなシロモノであって、物語性を仮託できるような強度のあるシロモノではなかった。が、失われた物語性(散文性)を強引に歌詞に求めた結果「万人にもわかりやすい」「騙しやすい奴を騙せればそれで良い」「想像どころかポンチ絵」みたいな歌詞が大量に生み出され、J-POPバブルと共に世の中に送られて行った。


その結果、音楽の物差しは「どういう演奏であったか」から「どういう曲であったか」に変容し、「曲」の概念は「音」から「歌詞」に変わった。歌詞の聞き取りにくいサウンドは敬遠され、歌詞を聞き取りやすいようにリズムは単調に鳴っているだけになった。「青春頑張ろう」ソングは全部メジャースケールになり、巧みなコードワークだの精緻なオーケストレーションなるものは過去の遺物となった。


こうして「名曲」至上主義のJ-POPが、今まさにどん底に向けて加速する。だって、それ「音楽」じゃねーだろ>散文至上主義名曲路線



歌詞の意味が重要ならケータイ小説でいいじゃん。音楽である必要がないじゃん。そういうことよ。そら売れなくなるだろうよ。当たり前だ。