大槻ケンジ「ステーシーの美術」の舞台化。原作の畸形問題、エピローグなどを省いているが概ねストーリーラインに忠実な舞台化。ただし、役割分担に大きな変更がある。
セットリスト
♪01 ミルクコーヒーダンス
♪02 ステーシー(opening theme)
♪03 ニアデスハピネス
♪04 砂置子165分割
♪05 ライダーマンの右手
♪06 リルカは地獄~ステーシー聖歌隊斉唱~
♪07 バタフライパウダー
♪08 殺戮ゾンビリバー
♪09 キマグレ絶望アリガトウ
♪10 今日の日はさようなら
♪11 違法再殺少女ドリュー
♪12 再殺部隊 –少女再殺歌劇ver.-
♪13 幻燈幻影マタイツカ
♪14 少女再殺
「モーニング娘。ミュージカル」という体を取ってはいるが、基本的にはキチンとした小劇団系の脚本のストレ-トプレイの上にアンサンブルとして9期10期が載っているという形式。実際に「ミュージカル」をやっているの冒頭部のはれいなパートだけという一風変わった構成となった。田中れいなミュージカルwith9期10期アンサンブルというのがこの舞台の基本的なスタイル。れいなと9期10期が「芝居」で絡むシーンは殆ど無く、伝えられてきた不思議な稽古の形式も納得できる作品になっていた。
基本的にとても良くできた舞台で安心して見ていられる。2回目より初見がアガルというとてもよい舞台。ネタバレはセずに見たほうが美味しい。また、とにかく歌がいいので出来ればセンター(座席番号13番)で見ることをおすすめする。きちんと左右偏らずに聞こえてくる歌声は感動モノである。
以下ネタバレ含む感想
ストーリーを原作のまま必要最小限の改変に留めるのか、舞台としての効果を狙って大きく構成を変えるのかは難しい問題だと思われるが、連作短編集に近い原作(しかも作者本人が内容に論理的整合性はないとまでいう)を、必要最小限の辻褄合わせのみの改変で済ませたことは若干、物語の論理構造を「損なう」影響を与えてしまっている。
今回の構成はステーシーを再殺する側が単純な「悪い人」に見えていくという構造的な欠陥を抱えている。それをひっくり返すために詠子を再殺する渋川のシーンをあえてエピソードの順番を入れ替えて配置したわけだが、だったら途中の構成も変えて行かないと伝えたい意図がうまく伝わっていかないのではないかと感じた。この物語の大きな構造は詠子と渋川の関係性の変化と「再殺」で示される(それ以外のパートとは実はおまけである)ラブストーリーなのだが、原作を細かく変えていっても結局、パズルのピースとしてそこが上手くはまらないままだった。小説と異なり舞台は「遡る」事ができないので、過去を参照させるためには、時間軸上の「過去」を未来の時制に挿入しなければならないわけだが、そうすることに構成が若干の試行錯誤と失敗をした、そういう印象を受ける脚本になっていた。単純に言えば結論がぼやけており伝えたいことが「あいまい」で「わかりにくい」脚本だった。「原作がそうなんだ」というなら、これは原作ではないので(舞台なので)、演出家の「この原作を使ってて伝えたい」ところは何なのかが曖昧にぼやけたのはとても残念だった。
物語を「伝わりやすい構造」に大きく改変するなら、時制としては「詠子と渋川」のタイムラインが舞台のタイムラインそのままとなり、それ以外のパートは時制のない「挿入劇」とする。その上で、リルカとドリューのエピソードの順番を入れ替える。ただ、これだと殺した詠子の幻影に悩まされ、最後に混乱の中死を選ぶ渋川というエピソードは挿入できない。でも「モモに食い殺される有田」というエピソードをわざわざリルカの終わりに配置したんだから「同じ事を二度やる」必要はなかったように思う。
普通エピソードの規模というのは、そこまでの話の流れを受けて(説明が要らなくなるので)規模が拡大すると思うのだけど、リルカの話とホスピスの話は両方共に「しゃべるゾンビ」と「混乱」と「主人公の死」を扱っているのに後者のほうがスケールが縮んでいるというのはどうかと思った。小さな出来事がより大きな形で再現されるというのなら伝わりやすいと思うのだが、逆は「同じ事をまたやっている」=「話が進んでいない」という印象になるので損だと思う。だーいしと祐介の代わりに「モモと有田は脱出する」という話にしなかったのは、愛する人に喰われて死ぬという「アイデア」を使いたかったからなんだろうなぁとは思った。
あと、非常に気になった点はモモが喋り始めてから有田が死ぬまでが無駄に長すぎ。バッサリ切ればよかったのに。。。
というわけで、また見に行ってきます。モーニング娘。たのしー!