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行く先不明のパソコンblog

音楽理論とJ-POP

Twitterだと断片になるのでここで少し。音楽理論とはなんぞや、ということで、簡単にいえば「文法」ということです。その中で「進行」というのは「てにおは」のこと。

音楽とはなんぞや、ということについては成り立ちから発達までを以前かいつまんで書いたので端折りますけど、要は「情報の伝達」です。


情報の伝達をするためには「なにが」「どうして」「どうなる」ということが送り手だけが分かっていてはダメで受け手にもわかるようになっていないといけないわけです。情報を暗号化し復号する際にどの部分が「主語」で「述語」で「動詞」で「形容詞」であるかというプロトコール(復号の手順)を定めて置かないといけない。

これを書き文字と記号(例えば音符と五線譜)で記述したものが「音楽理論」です。私たちは日本語を習うときに文法からは習いませんが、しかし、特に外国語を学んだり理解したりするときは文法を学んだほうが「簡単」だし「理解しやすい」といえます。命令をするときに「主語を抜いて動詞だけにする」なんてことは「覚える」より習ったほうが早いわけです。したがって音楽理論というものは現代音楽やジャズでない限りは「後付け」です。現代音楽やジャズは「今までにない理論」を作ってから「実際に演奏する」ことを主題にする音楽なので理論は常に「先付け」になります(だからこそ分かりにくい=伝わりにくい)

さて、「音楽理論」が文法で「進行」がてにおはである理由は、それがあらかじめ決まっていないと、何をやっているのかわからないから、という話はしました。しかし特定のプロトコールに汎用性があるか、というと、これはありません。西洋音楽の理論は西洋音楽にしか適用できません。日本の音楽(伝統音楽)の理論は日本の音楽にしか適用できないし、アフリカの民族音楽の理論はアフリカの民族音楽にしか適用できません。これは言語と全く同じで「一致させなければならない合理的な理由がない」から、みんな勝手に都合よく分化・発達させてしまったので、気がついたらばらばらで互換性が取れなくなってしまったと、そういうことになります。



民族音楽の多くが5音階を使うから、5音階にはなにか汎用性があるに違いないとか、パーでプーなことを言うオバカさん(藝大の人に多い)がいますが、アフリカのトーキングドラム圏の民族音楽はリズムだけで情報のやりとりをやっていてろくに音階なんか持っていません。そのかわりものすごい種類の打楽器と奏法と複雑怪奇極まるリズムとその多重化(ポリリズムで情報を多重伝送する)をやってのけています。前にも書きましたが、そこでは旋律楽器なんか「音が届かない」ので「使えないから発達もしない」から、そういう音階主体の音楽なんか成立すらしないわけですよ。そこに偉い藝大の先生がやってきて「運命」を聞かせたら部族の人は最初から最後までゲラゲラ笑い転げているだけだった、という結末が待っているだけです。私たちからすると彼らの「歌」や「笛」の旋律は素朴にしか響かないわけですが、彼らには旋律を複雑化させる音楽的「理由」がないんだからあたり前です。届かない情報は情報じゃないのです。


人間の口はひとつしかないから和声は重要ではないのでは、とか言う人もいますが、別に人間は声帯だけで発音しているわけじゃなく、鼻腔共鳴も胸腔共鳴も使って発音しているんだから、同時に複数の音が「鳴って」いる状態なわけですよ。ホーミィとかブルガリアンボイスとかの発声はそれに特化したもので、それをユニゾンで重ねるから物凄く響くわけです。汚い単音を絶対ハモらない平均調で5度だ7度だとか言って重ねるのとは方向性が全く違う。それはどちらがいいとかわるいとかじゃなく方向性が違うわけで、優劣を付ける意味すらない。違うものは違うわけで。


J-POPがここまで衰退してしまった理由は、ひとつには「でたらめ」な若手バンドの音楽を「個性」だと言って売り込もうとして、音楽文法的に主語も述語もあいまいな音楽だから「聞き手に送り手の意図が全く通じなくて」相手にすらされないという多数の事例と、もうひとつは、よく「J-POPは非常に高度な音の使い方をしていますよ!」さんに代表されるような「理屈」にはあっているんだけど、その素晴らしい文法力で「文例集のコピペ」を無限に再生産しているがゆえに「10曲聞いたら飽きちゃって(内容が同じだから)音楽はもう卒業」という若年層を毎年大量に生み出しているという、この二つの理由と、そしてメジャーが毎週送り込む新譜はこの二つにしか分類できないような「もの」しかなくなって、

もう20年経ってしまった

ということに尽きるかと思います。ここでPerfumeやystkを出すと贔屓の引き倒しになりそうなのでアレなんですが、Perfumeが支持されているのは「てにおは」がはっきりしている為に「わかりやすい」のに加えて、文例集のコピーにどどまらない「内容」が伴っていたからじゃないかと思うんですが、まぁ、DF以降急速に「文例集に頼った」音楽になりましたわなPerfumeは。


じゃあ、どうすんの、っていうと、これは割と簡単なことだと思うんですよね。

1 タレントスカウトするときに「でたらめ」と「個性」をキチンと区別してスカウトする。キチンと「てにおは」が出来ていて「個性」のあるアーチストはそのまま手を加えずに世に出す

2 個性はあるが「でたらめ」なアーチストには個性を殺さない形で「てにおは」をはっきりとさせるプロデュースをする。

これは1960年代の洋楽のプロデューサーたちがやったことそのままです。勘違いとして「てにおは」を教えることは「型にはめる」事だと思っている人がいますが、「てにおは」をはっきりとさせなきゃ「伝わらない」んだからそこは譲れない部分でしょ普通は。けれど、実際にはかなり難しい。

ビートルズがデッカのオーディションを受けて落ちたとき、おそらくデッカの重役陣は「R&Bの下手くそなカヴァーユニットだ。R&Bってのはそういうもんじゃないんだよ。こいつらはR&Bの"てにおは"がわかってない」と判断したんだと思うんですよ。でも、オーディションの現場でビートルズがやっていたのはブリティッシュロックであってR&Bじゃない。だからR&Bの「てにおは」なんか最初からそこにはないんです。それを見抜いたのがパーフォロンの重役たち。そしてジョージ・マーティンがブリティッシュロックの骨格を残したまま、グループに「音楽のてにおは」を骨格として入れた、それが成功した、そう思うんです。デッカで通っていたら、変なプロヂューサーがつけられてR&Bの「てにおは」を習わされていたかもしれない。それはそれで面白いですけど、多分だめになっていたんじゃないでしょうか。


音楽産業がどんどんダメになっていく昨今ですが、J-POPに関する限り、でたらめなスカウトとでたらめなプロデュースをやめるところから。少しでも「売れる」ようになるんじゃないかなぁ、と思います。



サカナクションがどんどんつまらなくなってんのよ!↑これはRIJの時に考えてた文章なんでちょっとタイミング外してるんですけど、まぁ、サカナクションの未来はどうよ、というふうに読み替えてもらえると嬉しいかもしれません。長文失礼。

あとでたらめだけど勢いだけはある、というのはAira初期のTerukadoですよ。彼は昔は文例集のコピペをやって曲を紅白に送ることまでやったあと、同じ手法で作ったハレパンを失敗させてしまって。そこで「てにおは」が全くわからないまま音楽センスだけで乙女ハウスやガールズエレクトロ「みたいなもの」をやってみたのが初期Airaで、とにかく聞けばわかるように「わかっていない」「でたらめ」「てにおはがぐちゃぐちゃ」だけど「力のある音楽」を持ってきた。力もないのに「てにおはがダメ」だからだけで評価したりはしなかったですよ。彼がプライドをかなぐり捨ててダンス音楽の文法をまる無視した「パワー勝負」を仕掛けてきたから感動した。今のJ-POPは内容のないバンドに「てにおは」だけ教えてやらせてるような砂を吐くようなシロモノが多すぎる。その対極にTerukadoはいたような気がしたのです。